処方箋その2

食のリスク学―氾濫する「安全・安心」をよみとく視点

食のリスク学―氾濫する「安全・安心」をよみとく視点

中西準子先生の新著『食のリスク学』の書評を書くと、ご本人が読んでいらっしゃるかもしれないので、書いてみる。

今、気になるのは、最近の市民運動の風潮です。自分たちの考えを通すときにはリベラルでなくてもいいという考えになってしまっています。昔の市民運動は、公正な方法で両方がきちんと意見を出せるような状況で議論をすべきだとか、思想によって差別されるべきではないという、民主主義の原則がありました。かかわっている人たちも、その原則を守ることは当然だと思っていました。たとえ自分と意見が反対であっても、相手を尊重し、変な個人攻撃をしないというルールが、しっかりと存在したのです。
 しかし、最近の市民運動の中には、自分の意見と違う人は権力を使ってでも叩いてしまえという風潮があります。リベラルとか民主主義、あるいは人間主義という大切な原則を外しても平気だという風潮はとても怖いことだと思います。(p164)

 市民運動も、最初はファクト(事実)から始まるも、ファクトからずれるという構図は、前著『環境リスク学』やWEBサイトでも中西先生、いつものこと、口が酸っぱくなるほど仰っている。悪徳商法を批判する側が、問題の悪徳商法と同じレベルに成り下がっている。まさにミイラ取りがミイラになる構図の典型。

 口蹄疫問題の影で今、農政にまつわる奇怪なことが起こっている。農水省首相官邸の、遺伝子組み換えに関するサイトが突如閉鎖され、検討会も4月からストップしているという。

農水省と首相官邸のGMO関連サイトが閉 鎖されました。
遺伝子組み換え作物のリーフレット
遺伝子組み換えの審査が止められました

 この対応から、「自分の意見と違う人は権力を使ってでも叩いてしまえという」声のでかい連中(と、山田農林水産副大臣?)のトンデモぶりが見えてくるというものだ。有機!天然!無添加!石鹸!(何故か重曹!だったりする)素晴らしい!のオホホ金満奥様の方を向いて、高っかいものは買えないビンボー人は飢えて死ね! これが“友愛”とやらの正体か。

 あ、検索していたら、こんなのがヒットした。

飲みたくない!「農薬や有機溶剤」

不安煽動商法に利用されては、中西先生もいい迷惑だろう。

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

 現在の日本で食品添加物残留農薬が食の安全にとって問題だということを言っている専門家は信頼するに足りません。それ以上その人の書いたものを読んだり話を聞いたりする必要はありません。結局のところこれさえ食べれば(あるいは食べなければ)病気にならないとか長生きできるというような魔法の健康食品や健康法は存在しないし、一〇〇パーセント悪いだけの食品もないという平凡でつまらない事実しか残らないのです。(p193)

 安部司の名前は出てこないが(『買ってはいけない』のカスが出した『ヤマザキパンはなぜカビないか』の矛盾は本書で指摘している。そもそも臭素酸カリウムは防黴目的ではないと)、この言葉を覚えておけば、第二第三の安部司が出てきても対応は同じ。


 三冊目。これは1996年に出た本だが、amazonの古本でも手に入るので、皆様に是非ともお薦めしたい。

源五郎のいずも風土記―感動と好奇心の日々

源五郎のいずも風土記―感動と好奇心の日々

 著者の橋谷博先生は、日本原子力研究所で主任研究官を務めた後、島根大学で教鞭を取られた方。潜水士免許を取って宍道湖・中海を潜って調査、“湖神のしもべ・源五郎”を名乗り、神主さんの白装束で講演し、環境狂歌なるものを詠まれた。代表作はこれ。

やさしくとは 生物どうしが 言うことさ 地球に言うとは 驕りきわまる

 本書にも、“ゼロリスク幻想”に言及した部分がある。

 環境行政には、規制値、推定値、予測値等性格の違う数値が入り混じって登場するので、誤差の概念とともにそれらの性格も吟味しなければ正しい評価はできない。PCBの排水基準が決められたとき、某紙の一面に、「我々は定量加減をゼロにしなければならない」という見出しの解説記事があり、感動した私は毎年試験問題に使わせていただいた。答えは簡単、誤差のある限りゼロという測定値はないのだが、知識はあっても知恵のない学生は何も書けない。0.3ppbという定量下限を設けてゼロ規制をかけない行政への新聞人のいらだちは分かるが、測定分析値のばらつき幅は低濃度になるほど大きくなることくらいは理解してほしい。(p92)

 また、「昭和48年の汚染魚騒動」について取り上げている。

 昭和四十八年夏の「汚染魚騒ぎ」は当時の公害問題の世相を表す教訓的なできごとであった。
「厚生省水域ごとの魚の水銀汚染度発表(四十八年六月二十四日の新聞)」、「魚類許容摂取量発表(献立表として一週間にアジ十二匹)」、「魚売れず、漁連厚生省に抗議デモ」、「献立表緩和(アジ四十六匹)」−石油ショックによる品不足と買いあさりで、秋風とともに忘却の彼方へ。
「汚染魚はどこへ行ったか」は、当時の私の講演の題目だった。科学的にみれば、前処理(灰化)時の水銀の揮散や当時の定量法・技術では有効数字は一けたか一けた半であろう。まして水域を代表するサンプリング(魚の種類、数、量、サンプル採取部分)のことを考えると、三けた、四けたの数値で水域ごとの汚染度が比較できるものではない。しかし連日の報道で多くの人が秋まで魚を食べられなかったし(缶詰が売れた)、秋以後汚染魚報道が皆無になったことも事実である。(p91)

「自分の意見と違う人は権力を使ってでも叩いてしまえ」というような連中を暗に批判した部分もある。本書では触れていないが(WEBサイトで公開されていた話)、橋谷先生がある消費者センターで、「手作り石鹸」のリスクについて説明したら、老人が石鹸を高く掲げて
「理屈はいらない!実践あるのみ!」
と叫んだ、先生は
「それでは戦時中の『進め一億火の玉だ、反対する奴非国民』と同じじゃないですか、理解には理屈が必要です、私は理屈を言いに来ました」
とたしなめたと。

 複数の分析者が同じものを共同で分析したとする。分析値の度数分布で、山を形成する母集団からかけ離れた値(outlier=アウトライヤー)を軽々しく棄却してはいけない。だれしも自分の値が母集団に入っていると安心し、アウトライヤーになることを嫌うが、母集団に偏りがあり、かけ離れた値が正しいことが後になってわかることがよくある。(p34)

 母集団とアウトライヤーは人間社会で考えると面白い。民主主義とは不純物に寛大であれ、ではなかろうか。ムラ社会では真値は求めにくく、母集団の中にいる限りアウトライヤーのことはわからないものである。(p35)

 戦争は処刑された戦犯だけが始めたのではない。それを迎え入れるムードが社会にあった。政党は一つになり、隣組が強化され、不純物(戦争忌避)は非国民としてその存在すら許されなかった。純化は人間社会の修正のように思われるが、純化した集団は思わぬ方向に突っ走る危険性がある。反原発運動の講師をしてもクビにならない日本原子力研究所では、まだるっこしさに、民主主義は大嫌いだ! と叫んだ部長もいたが、多様なベクトルのあるほうが健全であり、安心できる。
 しかし、本来民主主義は個人主義を認めたうえでのルールなのに、村役、トビ役、肝いりどんまかせのおてもやんの社会では多数の論理と称してムラ八分の道具に使われる。(p86-87)

 炭素14の年代測定で古寺を調べたところ、法隆寺だけが辻褄が合わない、仏教伝来の200年前から建っていたことになると騒がれたという。実は、炭素14の比率も時代によって変わっていて、それを補正しなければ実際より古く出るということが後で分かった。

 後年新しい事実が見つかると、以前のデータを補正することに自然科学の人間はなんら憚るところがないが、文系の人にはカンニングに見えるのかもしれない。(p95)

 エタロンとノルムの話。フランス語で「標準」を意味する言葉は2つあって、「ノルム」は人為的な取り決め(ISOやJISなど)、「エタロン」は普遍的な標準。

 エタロンとノルムを拡大解釈すると、内容(中身)と形式(がわ)になり、ホンネとタテマエとも言える。さらに拡大すると、エタロンには真実、正義、こころ、ノルムには規則、前例、慣行、肩書き、レッテル、セレモニーなどが相当する。(p38)

 先生、着任するときの「公務員宣誓書」に書いてあった「日本国憲法を遵守し」云々という「時代ばなれした文面に驚(p24)」いて、「憲法も時代に合わなくなったら改正してもいいと考えてはいけないのか(p25)」と。先生から見れば、憲法もノルム。

 この源五郎先生に関してうだうだ書いたのは、かの先生の講義を直に受けたのだよ私は。普段はトークに出てきた言葉を適当に黒板に書き殴る、ノートが取り辛いのなんの。で、試験はしっかりした問題を出す。けど何故か大学院生に試験監督をさせる。しばらく粘っていると院生がヒントを教えてくれる。

(付記 書き直し)
 橋谷先生を知る者は、信者とアンチに真っ二つに分かれるだろうが、実は不良学生時代はアンチだった。学祭で毎年講演をやっていたが、一度も行かなかった。最終講義も聴かなかった。今思うと惜しい。