小島正美著『誤解だらけの「危ない話」−食品添加物、遺伝子組み換え、BSEから電磁波まで』

 安井至氏による書評の方を前に取り上げたが、恥ずかしながらやっと買ってきた。

誤解だらけの「危ない話」―食品添加物、遺伝子組み換え、BSEから電磁波まで

誤解だらけの「危ない話」―食品添加物、遺伝子組み換え、BSEから電磁波まで

 安部司および、安部の主張を無批判に広めた者を批判している部分は、こうだ。

 安部氏が脚光を浴びたのは、添加物のリスクが高いという事実よりも、ニュース性があったからだ。ニュースを構成する「おもしろ要素」がそろっていたのが安部氏のケースなのだ。
 そのニュース性を構成する要素や言葉は、「内部告発」「便利さへの代償(文明への批判)」「白い粉」「子どもや家族への愛」「複合汚染」である。
 安部氏は添加物の製造・販売メーカーの社員だった。その会社員が、“内部告発”という形で添加物の危険性を訴えたところに、胸を打つものがある。
 また「自分の“家族”にこんな危ないものを食べさせていいのか」といった調子で家族への愛情をにじませながら、添加物を告発するのも記者の琴線に触れる。
 白い粉や透明な液体を見せて、こんな化学物質が子供たちの好きな食品に使われているとビジュアル的に説明するのも、理科的な知識に弱い記者の驚きを誘う。
 安部氏は、安さや便利さを得た“代償”に何を失ったかを考えようと一見、反文明論的な正義感を披露する。そして、最後には必ず「便利さを求める消費者も悪い」と言って、ものごとの両面性を強調する。
「危ない」だけを強調しているのではなく、文明の両面性を問うているという言い方で自分の身に逃げのオブラートをかぶせる。これが安部氏の特徴だ。
 また、こんなことも言う。「ひとつひとつの添加物の摂取では影響はないかもしれないが、“複合的”に摂取したら何か影響があるかもしれない」。
 安部氏の言論は、記者が聞けば、すぐに記事にしたくなるような言葉に満ちている。記者たちの心を捉えるすぐれた伝道師といってもよいだろう。
 安部氏を責めても始まらない。自分の信じることを各地で伝道しているに過ぎないからだ。
 すでに述べたように、私にとって気がかりなのは、それを聞いて、そのまま素直に記事にする記者たちの思考だ。また、安部氏を講演会に招いて、食品添加物の恐怖を伝えさせている地方自治体の思考だ。
 記者たちは「複合作用」という言葉にも弱い。科学的に見て、おそらく複合作用というものがあるのかさえ、しっかりと考えたことはないだろう。もちろん、研究文献に当たって、どういう化学物質で複合作用が生じるかを自分の頭で考えることもない。
 不思議にも複合作用と言われただけで、分かったものと考えて、すぐに記事にしてしまうのだ。ごくごく微量の化学物質で複合作用があるのなら、戦後60年間、数々の添加物を複合摂取してきた日本人はとっくに滅んでいるはずだ。滅んでいないところを見ると、日常的に摂取している程度の微量では複合作用を気にする必要はないということだ。(p25-27)

 まえにネタにした家庭科指導案にしてもそうだが、「添加物とは危険なものだ」という思い込みをすり込まれている。思い込みが先にあって、それに国や添加物協会が出している情報を無理矢理当てはめようとするから、おかしなことになる。小島氏によると、記者というものは、科学よりも「庶民感覚」に重きをおいて報じがちなのだと。

 安部がグリーン車で講演行脚して、“反文明論”を説けるのも、文明のおかげに他ならない。安部からはそれるが、以前山形浩生氏が書かれていたことに同意である。

 ぼくはグローバリゼーション批判をうれしそうに口走るやつが嫌いだ。そういうグローバリゼーションが嫌いというのは、つまりぼくに向かって、おまえなんか生まれてこなきゃよかったと言っているに等しいからだ。日本のいまの繁栄は、グローバリゼーションなしにはあり得なかったんだよ。もしグローバリゼーションがなければ、うちの父は和歌山の祖父の畑でももらって、今とは比べてモノにならない貧乏生活を送っていただろう。ぼくのタイや香港の友人たちだって、グローバリゼーションなくしては会うこともなかっただろう。日本で反グローバリズムとか寝言を言っているばかな連中自身、グローバリゼーションを通じた日本の繁栄があってこそ初めてそういうきいたふうな口もきけるのだ。

 そしてそういう間接的なものだけでなく、グローバリゼーションの恩恵を一番受けているのは、当の反グローバリズム論者だったりする。この評論家も、数日前はスウェーデンにいて、来週にはイギリスに行ってどうのこうの、とうれしそうに述べていた。グローバリゼーションなしに、それができると思うのかね。国際航空路線、キャッシュディスペンサーやクレジットカード、インターネット――それなしには、反グローバリズム活動すらあり得ない。反グローバリズム活動は、批判する当のグローバリゼーションに寄生する存在でしかない。

 もちろん、グローバリゼーションのやり方にはいろいろあって、ここはもうちょっと他にやりようがあるんじゃないかとか、この企業のこのやり方はあんまりだ、とかいうのはある。それはスティグリッツなんかが指摘している通り。でも、それはグローバリズムそのものを批判することにはならないのだ。

 そしてさらに、反グローバリズムを唱える人々の多くは、実はグローバリズムが本当にいけないかどうかについて、まともに考えていない。データの一つも自分でろくに調べていない。ベネトンの広告あたりを見て、なんかそれらしい雰囲気に浸っているだけなのだ。かれらの多くは、本気でグローバリゼーションを心配しているわけじゃない。同じように、はやりのエコロジーだの環境問題だのをテーマにしている人々が、本当にそれについてきちんと考えているとは思えない。それどころか、それについてのデータ一つまともに調べたとは思わない。どっかで焼き畑農業をしているところを見て顔をしかめてみたり。重油まみれの鳥をその場限りで心配してみたり。その程度の認識からくる「表現」に、何の意味があるのかね。

 政治や経済といった分野では、朝日vs産経のように、メディアの論調に幅があるのだが、ことリスク報道に関しては、食品添加物、ギョーザ事件、BSEダイオキシン、どのメディアも善悪二元論、奇妙なまでに画一化してしまう。薬害C型肝炎訴訟を取り上げたNHKの小宮英美氏の論評を引用している。孫引きになるが。

 真実を伝えようとは努めず、「隣の新聞社やテレビ局と同じであれば安心」という姿勢は、太平洋戦争のときのマスコミと一緒

 実は小島氏は、環境ホルモン問題の頃は、“煽り報道”をする側の立場だった。その反省・自戒を込めての論でもある。

 いったんメディアの記者たちが「組み換え作物は危ない、不安だ」といった論調の記事を書くと、あとになって、数々のメリットが分かったとしても、そのマイナス面を打ち消すのは容易ではないという「一貫性の法則」だ。
 これは、最初に否定的なことを書いてしまうと、あとになって、それと違った肯定的な内容の記事を書きにくいということだ。これは、途中で論調を変えるのを潔しとしない一種の法則のようなものだ。
 この法則はメディアに限らない。だれだって一度、コミットした(責任をもって発言した)ことを、あとで翻すことを心よしとしない。(p165-166)

 市民運動にもありがちである。反農薬・反合成洗剤を主張する市民運動家の考えている農薬や合成洗剤の姿は、数十年前のものだったりするのだ。ファクト(事実)に応じて主張を変えることは、“変節”だと貶される。中西準子先生は、かつて下水道政策を痛烈に批判して、東大では万年助手、先生のところに集まった学生も嫌がらせを受けたのだという。その中西先生が、それまで味方だった市民運動から敵視されるようになってしまった。変節でもなんでもない、ファクトに忠実であれという姿勢からリスク論にたどり着いたのである。