外部サイトより『環境の「危ない話」の報道の読み方」(安井至氏)

「市民のための環境学ガイド」で御馴染みの、安井至氏による連載コラム。

4次元エコウォッチング(安井至)環境の「危ない話」の報道の読み方(09/01/14)

 毎日新聞の小島正美記者の新著『誤解だらけの「危ない話」』の紹介という形。

■「危ない話」はニュース性がある

 小島氏の著書で出てくる「危ない話」の実例から取り上げたい。要するに、以下のものは「ウソ」であるか、「根拠がほぼ無い」ことのリストだということになる。

食品添加物を過剰摂取して亜鉛欠乏症に

●大量のサプリメント摂取が健康に良い

●携帯電話の電磁波が細胞のDNAを傷つける

●強い殺虫効果のある農薬が基準の2倍0.02ppm残留したら危ない

●中国では日本より農薬の使用量が多い

●遺伝子組み換え食品は食べると危ない

●米国産の牛肉は日本の牛肉より危険

タミフルは副作用が強いので飲むべきでない

●インフルエンザワクチンには重大な副作用があるので、接種すべきでない

アルカリイオン水アトピーに効く

●玄米菜食で胃ガンが治る

●合成化学物質は皮膚から浸透する毒性を出す=経皮毒

●合成化学物質は肌荒れの原因

 なぜ、このような「危ない話」がメディアに登場するのか。これが小島氏の著書の最初に取り上げられている主要な内容である。

 その一例として食品添加物を取り上げ、なぜ安部司氏の『食品の裏側』が脚光を浴びたのか説明をしている。ちなみに、小島氏の著書の中で安部氏は、食品添加物業界の有能なセールスマンだったという経歴ということになっている。

 小島氏の見解によれば、それは食品添加物のリスクが高いという事実があったからではなく、安部氏の登場そのものにニュース性があったからだ、としている。

 次のような要素があると、そのニュース性が高まるのが一般的らしい。

●「内部告発

●「便利さへの代償」

●「文明批判」

●「子どもや家族への愛」

●「複合汚染」

 食品添加物に関しては、これらに加えて、いかにも人工的な「白い粉」からスープなどが作られるデモだったと小島氏は指摘する。

 最近のメディアの傾向として、「バッシング」というものがあると個人的にも感じている。どうも、本来インターネットの裏側で行われてきた「2ちゃんねる」のような匿名の相互バッシング文化が、表の社会にもでてきてしまった結末が現在なのではないか、と考えている。

 そのため、「内部告発」が最上位に来る理由も良く理解できる。特に、公的機関が若干でもミスをすると、そのバッシングはかなりひどいものがある。反撃が無いので、安心してバッシングができるからである。しかも、一旦それが安心だとなると、すべてのメディアが一斉にバッシングを始めるという傾向も強い。

 「便利さへの代償」「文明批判」などは比較的まともな動機かもしれない。なぜならば、明らかに現時点は文明の転換期であって、21世紀型へのターンがどうも2009年にやっと起きるのではないか、と思われるからである。

 「子どもや家族への愛」ということが優先される社会が良いかどうか、それは別途議論が必要だが、少子化が起きる社会では、子どもは貴重品なので、4人兄弟が標準的な社会だった以前とは全く異なったマインドになることは、歴史的に証明が可能のように思える。

 「複合汚染」だが、これは歴史的には有吉佐和子氏の『複合汚染』が有名だ。1974年に発表されたこの長編小説は、時代としては、もっとも公害が甚大だった1970年頃の状況を反映したものである。

 実際に、異なった物質が複合的に作用し、単独の場合の数倍といった複合作用を出すことは、ほとんど知られていない。もちろん、アルコールを飲んだときに薬の効果が違うとか、グレープフルーツと高血圧薬であるカルシウム拮抗剤との相互作用とか、良く知られた例はある。しかし、アルコールに関しても、相乗効果ではなく、相加効果であるとされている。すなわち、それぞれの効果の足し算で説明ができる範囲であり、数倍とか数10倍になるということではない。

■メディアの特性

 メディアがニュース性のある報道を好むこと、これは、当然であって、特に非難に値することではない。したがって、報道には常にバイアスがかかっている。そこで受け取る方が、それなりの逆バイアスを掛けて、ニュースの真相を解き明かすという対応をする必要がある。

 これは読者にとって重要な対応策であるが、そのような逆バイアスをどのような方向に掛けることで真相に迫ることが可能なのか、という問いに答えるのはなかなか難しい。

 しかしいくつかのメディアの特性を理解することは有効かもしれない。

 どうやら次の3つにまとめることができそうである。

●センセーショナル=危険好き、平穏嫌い=マスメディアにとっては、エビデンス(根拠)が低い話ほど面白い

●メディアの正義観=個別被害や情報隠しを重視

●読者が期待する記事を書く傾向が強い

 センセーショナルであることを求めることも、これはメディアが商売である以上、仕方が無いことなのだろう。地下鉄のつり広告などでしか見ていないが、多くの週刊誌は中国産ギョーザ事件以後、中国産の食材を食べているとそれこそ死亡してしまうのではないか、と思われるような記事、もしくは見出しを掲載したようだ。

 しかし、現実の中国産の食品は、日本の商社などによって比較的よく制御されていて、中国産の食品が食品衛生法違反になる率は、米国産、欧米産の食品に比べても高くない。中国産が0.09%、米国産が0.12%だとのこと。要するに、米国産よりも安全かもしれないのである。

 中国産ギョーザ事件が日本社会に悪い印象を残したのは、やはり自らが責任を認めない国だという、ぼんやりとした感触を強めるような対応があったからだと思う。

 メディアはやはり自らを正義だと思わなければやっていけない商売だろう。となると、なんらかの記事を書いて、自分が「良いことをした」と思えることが1つの重要な要素である。

 そのため、個別の被害者の救済につながる記事には、あるいは、情報隠しをしていた悪い機関を暴くとかいった記事にも、正義感に類似したメンタリティーがどこかにあると思いながら記事を読むべきなのだろう。

 個別の被害者といっても、必ずしも人間だけではない。温暖化の場合だと、ツバルの住民だけでなく、北極のシロクマも被害者になりうる。要するに、読者のセンチメンタリズムをくすぐることも、記者にとっては有用な手法だということになるだろう。

 最後に読者の期待に沿った記事ということがきわめて重要である。小島氏は、日本農業新聞は、常に、米国産の牛肉は危ないと書かざるを得ないのだ、という説得力のある説明をしている。

 加えて、小島氏によるとある新聞の読者は、「危ない記事を期待している傾向が強い。特に、“ダイオキシンが危ない”と書かれることを期待しているし、“組み換え作物のマイナス面”も期待している」と非常に思いきった記述をしているのが面白かった。

■記者は庶民感覚を大切にしている

 記事の内容は、一般市民側が決める、というのが本書の1つの結論である。どうやら、「消費者が不安なら有害だ」というのが、記者共通の庶民感覚のようである。所属する新聞社によって、その庶民感覚は多少違うようである。そして、庶民感覚の例としては、以下のようなものを挙げることができるだろう。

●庶民感覚の例

原子力発電は危ない

食品添加物は危ない

残留農薬は危ない

中国産食品は危ない

・残留抗生物質は危ない

・遺伝子組換え食品は危ない

化学調味料は危ない

トランス脂肪酸は危ない

・化粧品中の天然物以外の物質は危ない

・電磁波は危ない

・IH調理器は危ない

・だからオール電化は危ない

ダイオキシンは危ない

環境ホルモンは危ない

カドミウムは危ない

・水銀は危ない

・BSEは危ない

・硝酸塩は危ない

 筆者の個人的見解であるが、これらの庶民感覚の中で、現時点で行われている以上のリスク対応をしなければならないものは、ほぼ無いと断言してよいと言える。勿論、100%確実な話はこの世の中に存在しないのだが。

 となると、このような「危ない話」に対して、積極的に対応策を取ること自体が無用な行為だということになる。

 となると、本書に記述されている以下のような項目は、「危ない話」への無用な対応策であるという結論になる。

・国産食材は安全:地産地消をする

デトックス:足の裏から毒素を出しましょう

デトックスアンチエイジング

・水を1日2L飲むとデトックスに効果的

・オゾン療法:オゾンたっぷりの血液が若返りに効果的

ステロイドを使わない民間療法でのアトピー治療

・ニガリ(天然物)でアトピー治療

 特に、小中学校の調理師さんですら、国産食材は安全で、中国食品は危険だと考えているとの統計データがあるらしい。また、記者であっても、1日にミネラルウォーターを2L以上飲むとデトックスになるということを信じているとの記述があって、笑わせる。小島氏は、最近のメディアのマインドで、もう1つの問題点が、「分かりやすさ」が陥る感情報道として指摘されている。これはその通りだと思われる。

 例として取り上げられている、C型肝炎訴訟の件、不二家が法律違反なしでも倒産寸前になった件などについて、個人的になんら知見が無いので、ここでは取り上げない。

■どんなリスク観を持てばよいのか

 小島氏は、このリスク観について、個人的な見解を述べているが、それは読者各位でお読みいただきたい。

 アマゾンの読者の感想を見ると、『メディア・バイアス』を含め、これらの本に対して十分な評価がされているとは思えない。もっと売れて良い本だと思う。本当の意味で、消費者にとって有用な本だと思う。

 売れない理由だが、メディア関係者のみならず、事業者、研究者など当事者にとって、真実がそのまま暴露されていて、逆に極めて有害な本だからなのかもしれない。しかし、消費者側からみれば、だから有用なのである。

 さて、ここから述べることは個人的な見解である。

 このようなメディアから正しい情報を得るには、やはり、最終的には、個人の見識をしっかり持つことだろう。

 その見識であるが、以下のリストのような記述に対して、あまり違和感がなければ、まずまずの見識を持っていると言えるのではないだろうか。このリストはリスクに対する見識のリトマス紙とでも言えると思う。

●リスクをゼロにはできない

●しかしリスクには安全圏がある

●もしも安全圏を超えているようなリスクが見つかって対策が出せれば、それは関係省庁にとって大手柄である

●食品というものは、それ自身にリスクがある

●例えば、植物の葉は一般に食べられないが、比較的毒性の低い植物を野菜と呼んでいる

●食品の最大のリスクは、感染症である
食品添加物の特性情報はよく分かっているので、健康被害のでない使い方が行われている

 そして、最後に、個人的にもっとも重要であると考えていることを書いて終わりとしたい。

 身の回りのリスクは、日本のような先進国では、ほぼ安全圏に入っている。しかし、ときに、意図的、非意図的に、妙なことが起きるのは人間社会の常である。加えて、天災のように避けることのできない事態が原因で、何か危険な事態も発生する。そのようなとき、最後に頼りになるのは、個人のモノに対する理解力、観察力しかない。

 ところが、地球全体でみると、気候変動をはじめとして、資源的限界、食糧供給限界など、リスクが高まりつつある。そのような外的なリスクに十分に注意を払って対応しないと、日本は、国全体として、大きなリスクに遭遇することになる。

 それには、まず、日本国内の身近なリスクは安全圏にあることを認識し、注意をむしろ地球レベルのリスクに向ける必要がある。
 身の回りに、あまりにも安全な社会を作り上げると、人間のリスク検知能力は失われる傾向がある。そして、被害はかえって増大する。現在の日本の状況はすでにそのレベルに入っている。身近なリスクと地球レベルのリスクの理解力、そのいずれにもいささか不安がある。

 2008年の金融破たんは20世紀文明の最後の形を示すものだった。その意味で、2009年からやっと21世紀「経済文明」が始まるように思える。

 2009年の日本で、リスクの理解に関して、上述のような方向性が共通理解になれば、21世紀型「リスク文明」がやっと始まったと言えることになるだろう。